アメダスデータと10年分の日記を重ねて:デジタルと手触りが交差する場所

10数年分のブログの過去ログ(17ブログ、2,000件以上)を、ローカルの「第2の脳(AI)」にすべて移行しました。

そうすることで、AIはぼくの過去の文章のトーンを学習し、ぼくらしい表現の草案を作ってくれるようになります。

インフルエンサーのように、コスパやタイパを求めて自動生成された文章をそのまま投稿することもできるのかもしれません。
けれど、いくらSNSの短い文章であっても、ぼくにはそうする気にはなれませんでした。

AIが作った草案に自分の手を入れ、言葉の手触りを確かめながら推敲し、自分の納得のいく表現にしてから差し出す。
そのプロセス自体に、ぼくにとっての「書くこと」の意味があるからです。

それはどこか、リアルの編集者さんとのやりとりに似ています。
「なんとなくここが違うな」「少し言葉が盛られすぎているな」と、お互いの言葉を探り合う感覚。
しかし、過去10数年に及ぶ膨大な記録を読み込ませたAIは、時にぼく自身よりも、ぼくのある一面を深くメタ認知しているように感じられます。

15年にわたる自然農の作業日誌に、瞬時にアメダスデータを重ね合わせ、分析してまとめ、提案を差し出してくれる。
その仕事は極めてデカルト的な知性を感じさせつつも、どこか人間味を帯びています。

AIとの対話、書くことの「手触り」

移行作業を終えた日の夕方、ふと思いついて、AIにこんなお願いをしてみました。
「過去の6月11日の日記と、当時の米原の実際の気象データを重ね合わせてみて」

戻ってきた分析は、とても興味深いものでした。

2015年6月11日
田植えにあたふたしながら、雨の中で家族と作業した記録がありました。
実際の気象データではこの日の降水量は「記録なし」となっています。
けれど日記には「雨が強くなり撤退」と書いてあります。
データには表れない、伊吹山の麓特有の「局地的な雨」を、ぼく達は肌身で確かに感じていたのだと分かります。

2017年6月11日
「梅雨なのに晴天続きで、田んぼの水持ちが悪い」と焦るぼくと、泥だらけになって笑っている幼い娘の記録。
実際の気象データも、降水量0.0mm、最高気温24.2度。
当時の焦りと、その日差しが、数字によって静かに裏付けられます。

2021年6月11日
最高気温が30度近い真夏日。「アオミドロが繁茂し、松の枝を挿す」という昔ながらの知恵を借りた試行錯誤と、水路の奥から聞こえた蛙の悲鳴。

2024年の6月11日
強い日差しの中で水不足に困るオタマジャクシを心配し、「もう少しで蛙になれるのにね」と雨を祈るぼく自身の言葉。

過去の記録が「自然との対話」になる瞬間

ただの個人的な「過去の日記」が、実際の気温や天候データという客観的な枠組みを伴うことで、「自然と人との対話の記録」という新しい意味を持ち始めました。

デジタルなデータと、土に触れる身体的な手触り。

この2つが交差したとき、過去の自分の歩みが、今の暮らしと選択を支える「生きた資産」として蘇る感覚があります。

道具としてのテクノロジーと、身体の現実

テクノロジーと伝統の共存。
ジョナサン・ハイトの著書『不安の世代』を読んでいると、そのテーマについて深く考えさせられます。
AIやテクノロジーは本来、人間を豊かにするための「道具」です。
しかし、いつの間にか私たちがその道具に使われてしまってはいないか。
そう自問し、自分の主体性を見失わないように、日々手足を動かすことに努めています。

ハンナ・アーレントが指摘したように、他者を「物化」することなく関わること。
あるいは孔子が教えたように、利己的であらず(私利私欲に走らない)ということ。

SNSのフィルターバブルやエコーチェンバーは、時に私たちを利己的な個人主義へと誘い、盲目化させます。
けれど、毎日の天候や目の前の自然という「物理的な現実」は、常にぼくをここにある身体へ、現実へと引き戻してくれるのです。

ネットの中の効率的な言葉に流されず、土に触れる手触りを持ちながら、これからも自分自身の言葉を紡いでいきたいと思います。

(ひでお