AIとの併走

10数年分のブログの過去ログを、ローカルの「第2の脳(AI)」にすべて移行しました。
そうすることで自分っぽいトーンで文章案を出してくれるようになりました。
インフルエンサーとかのようにコスパタイパ自動化とそのまま投稿することもできるのですが、いくらSNSと言えどもそうする気にはなれません。
なのでAIによる草案を手直しして投稿しています。
でも、なんとなく違うなーとか、盛られてるなーとか、こういう着色にしたいのか、みたいな探り合いはリアルの編集者さんともありますよね。で、まあいっかーでOKを出すっていう。

それでは本編

移行が終わってふと思いつき、AIに「過去の6月11日の日記と、当時の実際の気象データを重ね合わせてみて」とお願いしてみました。

返ってきた分析は興味深いものでした

2015年の6月11日 初めての自然農であたふたしながら、雨の中で家族と田植え。
データでは降水量が記録されていないのに、日記には「雨が強くなり撤退」とあり、山沿い特有の局地的な雨を肌身で感じていたことが分かります。

2017年 「梅雨なのに晴天続きで水持ちが悪い」と困惑するぼくと、泥だらけになって笑う幼い娘の記録。実際のデータも降水量0.0mm、最高気温24℃と、焦りと暑さが数字で裏付けられます。

2021年は最高気温30℃近い真夏日。「アオミドロが繁茂し、松の枝を挿す」という試行錯誤と、10m先から聞こえた蛙の悲鳴。

そして2024年の今日、厳しい晴れの中で水不足に困るオタマジャクシを心配し、「もう少しで蛙になれるのにね」と雨を祈る言葉。

ただの「過去の日記」が、年数を重ね実際の気温や天候データを伴うことで、「自然と人との対話の記録」という新しい意味を持ち始めました。

デジタルなデータと、土に触れる身体的な手触り。

この2つが交差したとき、過去の自分の歩みが、今の暮らしと選択を支える「生きた資産」として蘇る感覚があります。

テクノロジーと伝統の共存。
本「不安の世代: スマホ・SNSが子どもと若者の心を蝕む理由」著ジョナサン・ハイト
を読んでいても強く思うところです。
AI及びテクノロジーは道具である
道具に使われていないか?自問し、見失わないよう手足を動かすことに努めます

ハンナ・アーレントが指摘したように他者を物化することなく、
孔子が教えたように利己的であらず
SNSのフィルターバブルやエコーチェンバーは利己的な個人主義へと誘い盲目化させますが、
天候や自然は私を現実へと引き戻してくれます。

(ひでお